伯父

伯父が亡くなりました。

村山常雄といいます。2年前に能生から大宮に転居、昨年末から肺炎を患っていたのですが、ゴールデンウイーク明けにさいたま市内の病院で力尽きました。


伯父は4年間のシベリヤ抑留を経験、復員後は新潟県の中学校教諭を勤め上げました。70歳にしてパソコンを始め、6万人ともいわれるシベリヤ抑留死亡者の名簿作成に情熱を捧げ、10年以上をかけて46000人余の名簿を完成させました。

その名簿は漢字表記され、出身地、埋葬地まで記載されています。

ソ連側の発表した名簿が多少は存在しますが、ロシア語表記で、とても日本人の名前とは思えないものばかり。名前が正しく呼ばれないということは人間の尊厳を否定するものだ・・・とよく言っていました。


名簿作成は艱難辛苦の連続だったと思います。10年以上の間、連日10時間、2日以上の中断はなかったと言っていたので、年間300日以上に亘って没頭していたはずです。

元のソ連側名簿は日本人抑留者が言った氏名をロシア語で聞き取り、それをまた日本語にしているのでほとんどわかりません。抑留者の方々の発音も、今の人に比べれば、出身地ごとの訛りがきつかったはずなので、最初のロシア人通訳の聞き取り自体がすでに正しくなかったはず。それをいろんな資料とつき合わせ、時にはシベリアの現地まで行き、墓の文字を書き写したり、モスクワにある資料も取り寄せたりして作業を進めました。まさに執念です。


なぜそこまでしたのか? 頑張れたのか? それは、「生きて還ってきた自分と、シベリアで亡くなった人との落差があまりにも大きい」、「犠牲者の方に比べて安穏としている自分が許せなかった」・・・と言っていました。

また、そういう気持ちにさせた句があったのです。それは数十年前、北海道の方が新聞に投稿した、「シベリアの鶴来て還らざる兵士」という句です。わずか17文字ですが、激しい衝撃を受けたのでしょう。それが伯父を名簿作成に突き動かしたのです。


そうして作成した46303人の名簿は、ホームページで公開、分厚い本にもしました。その苦労が認められ、2006年吉川英治文化賞を受賞、日本自費出版大賞も受賞しました。私は甥として、近くでその努力を見ていたのですごくうれしかったです。

吉川英治文化賞は吉川英治文学賞と一緒に帝国ホテルで授賞式があったのですが、私も出席させてもらいました。過去の受賞者も参列するので、有名な作家の方々も大勢いました。石田衣良さん、浅田次郎さん、亡くなりましたが早乙女貢さんも和服姿で参列していました。ちなみにその時の吉川英治文学新人賞は「隠蔽捜査」の今野敏さんでした。


その際の伯父のスピーチは、私にとって生涯忘れることができないと思います。それほど素晴らしかった。

「まだ寒さの残る越後から来ました。」という挨拶から入り、すぐに「シベリアの鶴来て還らざる兵士」「新聞に掲載されたこの句を見て、私はハッとしました」と続いていったのですが、あんなに素晴らしいスピーチは後にも先にも初めてでした。話し方、間の取り方も上手で、周りの作家の先生方も圧倒されている様子がよくわかったほどです。


何だかこうやって記すと身内の自慢をしているようですが、決してそうではありません。冷静に見ても、伯父はの日本の戦後に対して、それだけの足跡を残したと思います。亡くなった翌日、NHKの全国放送で伯父のこと、苦労して作った名簿のことを放送してくれました。新聞も一般紙はもちろん日経までお悔やみ欄に名前が載っていましたし、東京新聞は2日間に亘って、伯父の記事を掲載してくれました。もちろん、地元の新潟日報にも。

公的な場では昨年8月23日の千鳥ヶ淵での抑留の追悼集いでの発言が最後でした。「犠牲者は戦禍に倒れたのではない。ポツダム宣言や国際人道法に違反する奴隷労働と飢えと寒さで亡くなったんです。」と挨拶したのだそうです。

その通りです。


葬儀は近親者のみの家族葬で行ったのですが、遠く佐渡からも始発の船と新幹線を乗り継いで参列してくれた方がいました。最初の赴任中学校の教え子の方だと思いますが、その方が伯父の棺に花を手向ける時に、「先生、さようなら・・」と言っていました。あの葬儀の中で私の心が最も動かされた瞬間でした。

伯父は名簿作成だけでなく、教諭としてもいい仕事をしたのだな・・・と思えたからです。佐渡から大宮まで足を運んでお別れを言ってもらえた、ということがそれを物語っています・・・。


そういう伯父を誇りに思います。

私も少しは見習って、仕事に人生に頑張りたいです。足元にも及びませんが・・・。